「ら」抜き言葉と、言霊の力(2)

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前回ブログの続きです。

(参考:過去ブログ記事)
 
■2008年10月24日
「ら」抜き言葉と、言霊の力(1)
「見られる」 → 「見れる」 「着られる」 → 「着れる」 これらは一般的に、「ら」抜き言葉と表現されます。 …


 
 
     □     □     □
 
 
たかが言葉、されど言葉。
言葉は、思考の道具でしかありません。
人は言葉を使って考えるからです。
でも、その実、
言葉は人間の思考を支配するものでもあります。
言語空間の範囲内でしか、人はものを考えることができないからです。
言葉は、それほど大きな存在なのだと私は思っています。
外国語を学ぶことによって、思考の幅を広げることができる一方で、
母国語をしっかりさせずに複数の言語を習得していくと、
思考が狭くなってしまったり、
安定して物事を考えることが難しくなったりするということは、
おそらくそれが真実だからなのだろうと、私は思います。
 
 
     □     □     □
 
 
言葉は思考の道具。
でも、言葉は思考を支配する。
そこまで考えた時、
私は、「ら」抜き言葉に、どうしても違和感を覚えざるを得ません。
言葉は生き物だという観点からすれば、
時代の流れに即して従うべきなのかもしれません。
でも、「ら」を抜くことで、
その言霊が失われてしまっているように思えてならないのです。
生き物としての「生」を感じないのです。
新鮮な食材が、インスタント食材化してしまう感覚があります。
 
 
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私は、負ではなく、
でき得る限り、正のパワーある言語環境で過ごしたいという願望があります。
振り返ってみれば、
古い日本の言葉には、美しい言葉がたくさんあります。
例えば「死ぬ」。
古い言葉には、「みまかる」という表現があります。
「死ぬ」という言葉からは、
時の断絶、別れの事実、そうしたイメージしか思いつきません。
でも「みまかる」という言葉からは、
その人に対する感謝の念、その人がもたらしてきた幸せの記録への憧憬、
その人の生きてきた年輪の重層といったものが感じられます。
言葉には、エネルギーがあるということです。
 
 
     □     □     □
 
 
言葉は生き物。
だからこそ、
エネルギッシュな言葉を使う空間を生きていたいものです。
言葉は記号です。
でもそれが「生き物」である以上、
言葉は、身体感覚とつながる存在だと思います。
PCやら携帯やらで打ち込む「言葉」と、
実際に話したり、手で書いたりする「言葉」とでは、
その価値に、その発露するエネルギーに、
予想以上なまでに、雲泥の差が出てくるのは、
ある意味で当然のことでしょう。
 
 
 【このテーマ:次回につづく】
 
 
 
 2008年10月25日             渡邉 裕晃
 
 
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