京都、高台寺・圓徳院住職との会食にて桜と人生を思う(その2)

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先日のブログの続きです。
圓徳院住職との会食にて桜と人生を思う。第2回目。
前回は、住職との対話にまで話が及ばず(笑)、
「なぜ私が桜に惹かれるようになったか」というところで終了しました。
 

(参考:samsul.comブログから)
 
■2007年4月10日up
 京都、高台寺・圓徳院住職との会食にて桜と人生を思う(その1)


圓徳院住職、他数名の方々と、
お食事をご一緒させていただいていた時のこと。
見事なまでに満開の桜が咲き乱れる中、
温暖でさわやかな風に乗って、
桜の花びらがわずかに散っていきました。
 
住職と眺めた見事な桜。左手には清涼な川、右手には美しい石畳
【写真:住職と眺めた見事な桜。左手には清涼な川、右手には美しい石畳】
 
実に美しい光景・・・。
まさに「日本の美」です。
そこで住職はおっしゃいました。
「桜は満開の姿も美しいですけど、
 散り始めてからの姿が、本当は美しいですなぁ。
 これは人生と同じでしてなぁ・・・」
 
 
     □     □     □
 
 
たしかにそうだなと思いました。
そしてその後、ゆっくりと、しかしながら、じわじわと、
「いやぁ、深いなぁ」とも思いました。
前回のブログで書きましたが、
一般的に、お花見と言えば、
満開の桜に対峙して、
ただひたすら一心に、その美しさを楽しむもの。
そして、その一方で、
散りゆく桜に、一抹のはかなさを思うもの。
ですが、住職は、違った見方を披露されるのです。
 
 
     □     □     □
 
 
桜は、散り始めてからが、本当の見ものであり、
その段階でこそ、真の美しさを発揮するもの・・・。
これはとても深いと感じました。
見かけの美しさに惑わされていては、
物事の本質は見えないということなのだろうと思いました。
 
 
     □     □     □
 
 
住職は、
あまりに明るく元気に咲き誇る姿は、
いかがなものか・・・と言います。
もちろん、桜のあまりの美しさを前にして、
ため息をつく程に、美を堪能されていました。
そうした上で、
「でも、どうなんだろうか?」と、問いを挟まれるのです。
 
 
     □     □     □
 
 
近年、高台寺の椿に異変が起きているそうです。
あまりにもたくさんの花が咲いたと。
たしかに美しい。
でも、あまりにも花が咲き乱れるというのは、
自らの生命の終わりを自覚しているがゆえの、
「早く子孫を残さねば」という、焦りの表れだというのです。
「種の保存」という本能のために、
あまりにも無理をしているようで、
見ていてかわいそうだ、と。
たしかに美しいけれども、
これは生命として弱りきっている証拠なのかもしれない。
ひょっとしたら、かなり危ないことになっているのではないか。
ただいたずらに感動するだけで良いのか、と。
 
 
【つづく】
 
 

(参考:samsul.comブログから)
 
■2007年4月20日up
 京都、高台寺・圓徳院住職との会食にて桜と人生を思う(最終回)


 
 
 2007年4月12日            渡邉 裕晃
 
 
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