「チャンスをつかみとるために 〜後悔を減らすための行動方針〜」

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「やるべきか、やらないべきか」迷うことは、往々にしてあることだと思います。ただ、チャンスは自分からつかまないと逃げてしまうこともあります。
そんなとき、私が判断基準にしているのは、「明日死ぬとして、それをしなかったら後悔しそうかどうか」ということ。ほんの少しでも後悔するような気がしたら、できるだけ勇気を出して実行するようにしています(のつもりです)。


「まだまだ人生長いのだから、またいくらでも機会があるだろう」とは思いません。時には、「もうちょっと機が熟せば、あと数回ぐらいは同じようなチャンスがあるかな」と思うこともありますが、「いくらでもあるだろう」とは思いません。
だいたい「まだまだ人生長いのだから」というのが信用できません。よく、若くて健康不安も無いような人が「ぼくって短命な気がするんだよね」ということを、うぬぼれ半分で語るケースがありますが、そういうのでもありません。
世にはびこる「平均寿命」という概念が信用できないからです。
厳密に言えば、「何歳で亡くなった方が多かった」という「結果論としての平均寿命」であれば、それは信用できます。ただし「ある地域に住む何年生まれの人は、平均あと何年ぐらい生存できるでしょう」という「予測論としての平均寿命」(期待寿命:平均余命)は、全く信用する気になれないのです。
だいたい昔も今も、この世界には、死の危険性がたくさん転がっています。私の友人でも、すでに10代、20代で亡くなっている人が何人かいます。比較的に安全だとされる日本でさえ、毎日どこかで人が亡くなっているのです。
ライフプランがらみの話になると、「80歳ぐらいまで生きる」ことが前提となるケースが多いですが、本来的には、誰もがいつ死んでもおかしくない状態にあるわけです。縁起でも無いと言われそうですが、それでも事実なのですから仕方ありません。
スピードを出して車を運転しているとします。赤信号をそのまま突っ切ってみれば、人が死にます。同様に、途中でふとハンドルを90度傾けてみます。すると歩道の人が死にます。簡単に人は死んでしまいます。
人は道を歩いているとき、いつひき殺されてもおかしくない危険性をはらんでいるのです。ガードレールに守られているとしてもたかがしれていますし、だいたい横断歩道を渡るということは、物理的なものによってではなく、信号という抽象的な記号によってしか生命が守られていないことと同じなのです。
□     □     □
学問的には「生態的寿命」と「生理的寿命(最大寿命、限界寿命)」と呼ぶそうです。前者は、生活環境や条件(何らかの不慮の事故など)によって影響を受ける個々の個体の生存期間を指します。後者は、天寿を全うして老衰などの生理的原因によって死亡するまで続く個体の生存期間を指します。
多くの人、特に若い人の多くは、後者の「生理的寿命(最大寿命、限界寿命)」を中心に考えると思います。つまり、まだまだ先は長いと信じているわけですが、実際には今日、明日にでも死んでしまう可能性はもっているわけです。
そんなわけで、いつ死に別れるかわからないわけですから、「やるべきか、やらないべきか」迷うとき、あるいは、それをしなかったらほんの少しでも後悔するような気がするとき、それが人様にご迷惑をおかけすることでない限りは、できるだけ勇気を出して実行するようにした方が良い気がするのです。
このような判断基準は単純過ぎるかもしれません。でも単純な判断基準であるおかげで、本来悩まなくて良いような単純な意思決定で、無意味に悩んだりするようなことが少なく済むことにもつながります。
また「死別」の必然性を常日頃から自覚するようにしていると、同時に「生まれること、出会うこと」が、稀少性を帯びた貴重な偶然であることを自覚できるようになると思います。別れが必然なら、日々の出会いは偶然だということです。
そう考えると、この世界には、楽しいことや挑戦し甲斐のあることがたくさんあることに改めて気付きます。素晴らしい人、魅力的な人も、たくさんいるわけです。おもいっきり燃焼せずして、おいおいと死んでいくわけにはいきません。そんなわけで、残された人生、与えられた人生は、精一杯楽しんでいきたいものです。

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