皆さんは、「アンフィニッシュド・ブッダ(Unfinished Buddha)」という仏像を御存知でしょうか?
先月某日夜、私は暗闇の中でたくさんのろうそくの光に照らされた、この仏像を前にして、時のたつのも忘れていました。はたと気づいた時には、おそらく30分以上は経過していたものと思います。「アンフィニッシュド・ブッダ」には、なんとも言えない魅力があるのです。
この「未完成のブッダ」という仏像。インドネシアのジョグジャカルタにある世界遺産、ボロブドゥール遺跡のすぐそばに安置されています。意外と知られていない存在です。
目次
世界遺産ボロブドゥール遺跡の謎
西暦780年頃から、50年以上もの年月をかけて建てられたと言われるボロブドゥールは、複数の階層からなるピラミッド状の遺跡。一辺約120メートルの正方形をしており、下層から上層に向かって段々上になっています。
レリーフを使って人間の俗世界から仏の世界までが描かれ、お釈迦さまの生涯をたどることができます。
上層部にはたくさんのストゥーパ(仏塔)があり、それぞれの内部には、仏像がおさめられています。遺跡の頂上部には、最も大きい巨大なストゥーパがあるのですが、その内部は空っぽ。かつてそこに安置されていたと言われるのが、この「アンフィニッシュド・ブッダ」らしいのです。
ただ、遺跡の成り立ちも含め、詳細については、いまだに謎とされるところが多いようです。
なお、この写真はボロブドゥール遺跡に安置されているもの。「アンフィニッシュド・ブッダ」とは異なります。
ボロブドゥール遺跡の場所は?
インドネシアのジャワ島にある世界遺産、ボロブドゥール遺跡はこちら。
そしてこの「アンフィニッシュド・ブッダ」が置いてある場所は、遺跡に隣接する博物館、カルマウィバンガ ミュージアム(Karmawibhangga Museum)です。
意外と知られていない「アンフィニッシュド・ブッダ」の存在
「アンフィニッシュド」という名前からわかるように、この仏像は、ボロブドゥール遺跡に安置されているたくさんの仏像とは異なり、未完成のままになっています。
この「完成目前」の奇妙な仏像に、私は30分以上も見とれていたわけですが、果たして「たまたま完成しなかったもの」なのか、あるいは「わざと未完成のままにしたもの」なのか、歴史家の間でも、まだはっきりした結論は出ていないようです。
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# 実は、ロマン台無し(笑)の俗説もあるそうです。元々は完成され
# た仏像が安置されていたものの、オランダ人が盗んでしまったと。
# 盗んだことをカモフラージュするために、近くに放ったらかしにさ
# れていた制作途中の仏像を見つけて頂上まで運んだだけだ、なんて
# いう説です。本当だとしたら、夢が潰れますね(笑)
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ただ、遺跡の頂上に、完成目前の未完成の仏像を安置することによって、「遺跡の完成」としているところから推察するに、作業が終わらなかったがゆえの未完成ではなく、意図的に演出された未完成であることを感じさせます。
「未完成の完成」という哲学の深み
この「未完成の完成」という論理。実に面白いと思いました。
人間は不完全であり、完全存在としての仏を彫像として正確に作り出すことはできないということ。その一方で、不完全な仏像によって、仏の完全性を表現するということ。
未完成をもって、「人間の不完全性」と「仏の完全性、対人超越性」を同時に表現するというのは、言わば「数字のゼロの発明」という偉業に近いものがあるとすら言えるのではないかとも感じました。
はるか昔の時代、この大遺跡をつくった人々の苦労と想い、この時代の人にしてこの論理。そしてその結晶となる作品が目の前に。そんなことを考えていると、眼前の「実物」を前にして、歴史の流れ、人の想いについて・・・、ただただ「すごい!」という感想で、圧倒されてしまいました。
国宝・日光東照宮の陽明門にも未完成の完成という哲学が
世界を見渡してみると、こうした「未完成の完成」という哲学は、随所で散見されるようです。
例えば、国宝である日光東照宮の陽明門の柱にも、その姿を見ることができます。陽明門の柱には、幾何学模様を浅く刻むこむという地紋彫(じもんほり)が施されています。陽明門の場合には屈輪文(ぐりもん)と呼ばれる渦巻き模様が施されていますが、12本ある柱のうち1本だけは、その屈輪文が逆さになっています。
これは「建物を全て完璧に完成させるといずれ崩壊する」との考え方から意図的に1本だけ逆にすることで未完成を演出したものだと言われているそうです。つまり、崩壊を防ぐということで、日光東照宮の完全性を示したものだと言えそうです。まさに「未完成の完成」ですね。
思い出される、「発明王」エジソンの名言
もっとも、未完成をもって完成を表現するというこの論理は、仕事の目標未達の言い訳としても使われてしまいそうですが(笑)、「未完成ゆえに表現され得た美しさ」は、結果よりも過程が大事だということ。
もっと正確には「もうすぐで完成しそうだが、完成に至る一歩前で足踏みしていて、でも完成を目指して頑張っているんだ!」という段階。完成に至る途中経過というよりも、「ほぼ完成に至るという、まさにその直前の姿」に重きを置いた考え方なのかもしれません。
完成よりも過程が美しいし、中途半端な過程よりも、完成に近いところの段階には、努力が完成へとスパークする寸前の美しさがあると言えるのかもしれません。
こうして考察を進めていくと、ふと思い出すのがエジソンの有名な言葉です。
「天才とは、99%の努力と1%のインスピレーションである」
真の完成品は、努力だけでは生まれない。努力が極限まで至った段階でおとずれる「ひらめき」あるいは「何か」がかぶさって、そこではじめて「完成」に至るのだ、と。私はそんなふうに理解しています。
皆さんは、何かの分野において努力を相当までに積み重ねた時や、考えに考え続けた挙句、一定の時を経て、ある時ふと突然、不思議なひらめきがやってきた経験をされたことがあると思います。これがあって、はじめて、より良いものが出来あがったという経験です。
一夜漬けが未完成で終わるのは、この最後の1%の部分が抜け落ちているからではないでしょうか。
ある雑誌で、いくつもの事業をたちあげるのが好きな起業家のコメントがありました。なぜ、次から次へと事業をたちあげるのか?という質問に対し、彼はこう答えました。
「お金ではない。事業をたちあげる過程では、思わぬ進展が起きることがある、そういう人知を超えた神秘をいつまでも感じていたいからだ」と。
きっと似た感覚なのではないかと思います。
未完成を完成へと橋渡しする「ひらめき」という神秘
完成に近づくには、完成ギリギリまで最大限に努力を重ねること(99%)が重要で、そのあとに、「ひらめき」や「偶然」という、人知の及ばないもの(1%)がやってくるのでしょう。その、やってくる寸前の姿は、その人にとっての努力の際限をほんのちょこっと超えた状態であり、そこに「アンフィニッシュド・ブッダ」の美しさがあるのだと思いました。
未完成を完成へと橋渡しする神秘。きっとそれは、悟りの神秘と同じものがあると言えるのでしょう。
一つの目標を達成すれば、次の目標が、おのずとしてたちあがるわけですから、人生に完成ということはないでしょうが、常に完成へ向かって走る、努力の完成寸前の姿。たえず「未完成の完成」を追求し、その繰り返しによって、人は、人生の完成へと近づいていく。そうやって上の層へと登っていく、それが生きる道なのだと、ボロブドゥール遺跡の制作者は言いたかったのかもしれません。
もちろん、歴史的にも解明されていないことだらけのようですから、私の一方的な解釈かもしれません。でもそんなふうに考えてみると、日々がとても大事に思えてきますし、そんな思いで毎日を大切に生きていきたいものだとも思いますね。素敵な遺跡であり、奥行きのある仏像です。
最後に余談ですが、最上階に未完成の仏像を安置することについては、当時、きっと「最上階には最上の仏像を安置するべきだ」という反対の声があったでしょうね(笑)。 奥深い、素晴らしい作品だと私は思います。
まだご覧になっていない方には、ぜひいつかボロブドゥール遺跡で実物をご覧いただいて、その迫力を感じとってもらえたらと願っています。
# しかし、冒頭に紹介した「俗説」が真実では無いことを祈るばかりです。
# このコラムも崩壊することになりますからね。笑