先日のブログの続きです。圓徳院住職との会食にて桜と人生を思う。第2回目。前回は、住職との対話にまで話が及ばず・・・、「なぜ私が桜に惹かれるようになったか」というところで終了しました。
圓徳院住職、他数名の方々と、お食事をご一緒させていただいていた時のこと。見事なまでに満開の桜が咲き乱れる中、温暖でさわやかな風に乗って、桜の花びらがわずかに散っていきました。
【写真:住職と眺めた見事な桜。左手には清涼な川、右手には美しい石畳】
実に美しい光景・・・。
まさに「日本の美」です。
そこで住職はおっしゃいました。
「桜は満開の姿も美しいですけど、散り始めてからの姿が、本当は美しいですなぁ。これは人生と同じでしてなぁ・・・」
□ □ □
たしかにそうだなと思いました。
そしてその後、ゆっくりと、しかしながら、じわじわと、
「いやぁ、深いなぁ」とも思いました。
前回のブログで書きましたが、一般的に、お花見と言えば、満開の桜に対峙して、ただひたすら一心に、その美しさを楽しむもの。そして、その一方で、散りゆく桜に、一抹のはかなさを思うもの。
ですが、住職は、違った見方を披露されるのです。
□ □ □
桜は、散り始めてからが、本当の見ものであり、その段階でこそ、真の美しさを発揮するもの・・・。
これはとても深いと感じました。
見かけの美しさに惑わされていては、物事の本質は見えないということなのだろうと思いました。
住職は、あまりに明るく元気に咲き誇る姿は、いかがなものか・・・と言います。もちろん、桜のあまりの美しさを前にして、ため息をつく程に、美を堪能されていました。そうした上で、「でも、どうなんだろうか?」と、問いを挟まれるのです。
□ □ □
近年、高台寺の椿に異変が起きているそうです。あまりにもたくさんの花が咲いたと。
たしかに美しい・・・。でも、あまりにも花が咲き乱れるというのは、自らの生命の終わりを自覚しているがゆえの、「早く子孫を残さねば」という、焦りの表れだというのです。
「種の保存」という本能のために、あまりにも無理をしているようで、見ていてかわいそうだ、と。たしかに美しいけれども、これは生命として弱りきっている証拠なのかもしれない。
ひょっとしたら、かなり危ないことになっているのではないか。ただいたずらに感動するだけで良いのか、と。
【つづく】
2007年4月12日 渡邉 裕晃
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