先日のブログの続きです。圓徳院住職との会食にて桜と人生を思う。第3回目。
前回は、見かけの美しさに惑わされていては、物事の本質は見えなくなってしまうのではないか、というところで終了しました。
前回のブログ記事同様に、住職のお言葉をふまえ、私なりの理解を添えて、書いています。住職の本意からそれている可能性もあることを留意の上、お読みいただければと思います。
【写真:住職とお花見をしたお茶屋さんの部屋から(通行人の注目を集めまくりでした・・・)】
人は、満開に全開に咲き誇る姿に感銘を受けるものの、あまりに輝かしい背景をきちんと見ているだろうか、と。
自らの短い寿命を悟っているがゆえに、頑張って咲き誇ろうとしている・・・。これはどういうことなのか、改めて考えるべきではないか、ということです。
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住職によれば・・・、
あるお寺(著名なお寺ですが、私の記憶違いかもしれないので、名前は伏せておきます)では、桜は修行の邪魔になるとして、すべて別の木に植え代えてしまったとのこと。
(1)あまりにきれいで修行の邪魔になる
(2)本質を見る目が失われかねない
(3)その他
いろいろな背景があるのだと思います。
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さらに住職によると、そもそも、このソメイヨシノは、クローンによって生まれたもの。
京都の自然の桜が、寿命にして1000年超を誇るのに対し、わずか70年の寿命しかない。美しさを求める江戸文化の影響で、どんどん植えていったもの。桜を密集させるのは、本来、京都の文化ではなかったこと。
そんな背景があるようです。
その桜たちが、生命力の衰退に備え、種の保存に賭けて無理やりに大いに咲き誇る姿。
これは、本当に美しいと言えるのかと。
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これらを思うと、いろいろと複雑な思いにとらわれます。
そして、人生に当てはめた時、実にいろいろな想いがわいてくるように思うのです。
だからこそ、断言できます。桜は深いと。
視野は広く、心は深く。
そういう生き方をしていきたいものです。
【写真:舞妓さんもいらっしゃいました。はかなさと同時に本質の美しさも感じさせます・・・】
そして、桜は散り始めてからが美しい。人生と同じで、まさにここからが深みのある時代のスタートだ・・・という言葉。これにも、常に想いを馳せていきたいものです。
ある経営者が、こんなことを言っています。
不幸にも挫折のどん底に落ちた経営者に向けて、こんな言葉を贈ったそうです。
人間万事塞翁が馬と言うが、人生には、自分ではどうにもならない巡り合わせがある。あれこれ考えたり、ジタバタしたりせず悠々としていれば、巡り合わせでまたよい事もある |
散ってからが本当の勝負。
外見でちやほやされる時代を経てから、ようやく本質で勝負できる時代に入るということですね。
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本質で勝負するには、ホンモノの努力が不可欠です。
地味でも着実に努力を重ね、
日々を本当に大事にしながら生きていくことこそが、
とても大事なことであり、遠回りのようでいて近道だと。
だからこそ、それが幸福の本道なのだということなのかもしれません。
散っていく姿をおもんぱかりつつ、
散りながらも真剣に生きていく真摯な態度を忘れないこと。
それこそが、急がば回れの幸福術なのでしょう。
桜は本当に深いですな・・・。
【追伸】
住職からは他にも様々なお話をうかがうことができましたが、国宝の「松林図屏風」にまつわる話もその一つ。
「ぜひ実物を見ると良い」とのアドバイスをいただき、その後、実際に拝見することができました。その時の感動はこちらに。