個人的な話・・・というか、家庭内の話なので、このブログ、広く読んで欲しいというよりも、個人的に忘れたくない思い出として、備忘録としてまとめます。
先日のことです。
インドネシアの祖母の家で、住み込みで働いて下さっていた女性が急逝しました。
お仕事を担って下さった期間は、実に半世紀超!
「お手伝いさん」「メイド」「女中」「家政婦」等々、いろいろな呼称がありますが、元々は、私の曽祖父が声をかけて仕事が始まったという存在。
歴史は本当に長く、「お手伝いさん」とは言えども、ほとんど家族に近い存在だったと思います。職人というか、勤勉の塊のような頼もしい女性でした。
【写真:用意してくれた、ある日の食事風景(これでも品数が少ない方です)】
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「急逝」と言っても、
彼女の年齢は、インドネシアの平均寿命を上回る数字。
ある意味で仕方のない年齢ではありますが、
でも、5ヶ月前に会った時には、まだまだ元気だったので、
私にとっては、急逝以外の何ものでもありません。
私は2歳の時から、ほぼ毎年のように、
インドネシアの祖母の家を訪れていました。
それぞれ約1週間超くらいの滞在で、
また大学生の時代には1ヵ月半滞在していたこともあったので、
おそらく合計で40週間くらいはお世話になったはず。
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人の人生を考えた時、
何をもって「幸せの形」とするかは、なかなか難しいもの。
彼女のとった選択は、
類まれなる、ある奇跡的な縁から、
曽祖父の家に住み込みで働くことになったという道でした。
(インドネシアには不思議な縁の話がたくさんあります。
詳述しませんが、彼女の場合も例外ではありません)
【写真:半世紀に渡って切り盛りしてくれた台所兼住み込み棟(右側)】
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その後、半世紀を超える年月に渡り、
曽祖父以来の家族全体を支えて下さいました。
学校に行けなかったことから、
文字も数字も読めない状態からの仕事のスタート。
地頭の非常に優れた方で、
文字も数字も読めないのに、
あっという間に家事全体のサポートができるように。
(片目が見えないというハンデもあるのに)
家の事情が特殊なだけに、
その後、お手伝いさんが複数存在する環境になったものの、
その全体マネージメントも、つつがなく進行。
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家事のかたわらでは・・・、
小さな洋服店の運営やら、
趣味でつくったお菓子やアイスの販売に至るまで、
単なる家事の請け負いにとどまらず、
様々な領域にまで、活躍してくれました。
【写真:「作ってみたので食べてみて」と出された逸品。割烹レベルです】
この半世紀に渡って確実に必要とした人材であり、
類まれなる才能でもって、
家族全体を支えてくれた存在ではないかと思います。
まさに「お手伝いさん」を超える存在です。
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表現が陳腐かもしれませんが、
「ご縁」って、本当に深いんですよね。
家族を超える縁、血縁を超える縁というもの、
運命の糸というものは、厳然として存在するのだということを、
私は信じて疑いません。
【写真:用意してくれた食事にありつく娘。走り回る息子】
とにかく明るい存在で、
家族全体を、おそろしく力強く支えてくれた存在だったと思います。
□ □ □
近年のインドネシアでは、
お手伝いさん選びに苦労する声を多数、耳にします。
いわく、「使えない」「信用できない」「すぐ辞める」等々。
時代が時代だけに、功利主義や個人主義が進んでいって、
従来の「奉公」「職人」像は、廃れる一方なのでしょう。
あるいは、従来型の「勤勉」「一身に尽くす」というスタンスが、
「個の埋没」というマイナスイメージに彩られている悪弊が
あるのかもしれません。
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繰り返しになりますが、
「職人」「勤勉」「忠誠」の塊のような存在でした。
それは、揺るぐことのない「縁の下の力持ち」。
もし、転生というものがあるのだとしたら、
彼女は確実に、
来世で素晴らしい境遇の人生を歩むに違いありません。
【写真:台所棟に自由に出入りする野良猫たち】
現代の日本では、なかなか会えない存在かもしれません。
私は、このような方にめぐり合えたことを幸せに思います。
冥福を祈るばかりです。
本当にありがとうございました。
【写真:料理がおいしいのか、台所棟の前の野良猫たちは増える一方】
2011年4月25日 渡邉 裕晃
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