「インドネシア残留日本兵」の最後の生き残り。今年で95歳を迎える小野盛(おの・さかり)さん、インドネシア名:ラフマット小野)のお宅にお邪魔する機会がありました。
小野盛さんは、まさに歴史の生き証人。以前からお会いしたかった人物。ようやくお会いすることができました!
「残留日本兵」という言葉は歴史の教科書に出てこないため、あまり知られていない存在かもしれません。
小野盛さんは23歳の時に、軍人としてジャワ島に上陸。その後、日本が敗戦を迎えた時、小野盛さんは日本への帰国を拒否します。なんと日本軍から離脱して、インドネシア独立戦争に参加する決断をされるのです。
【写真:94歳とは思えない程、たくさんの話を聞かせてくれた小野盛さんと】
目次
東ジャワのバトゥで余生を過ごす残留日本兵の小野盛
現在のお住まいはインドネシア、東ジャワ州にある高原都市バトゥ(Batu)。地図で示すと、このあたりになります。
私の住むマラン(Malang)からは、それほど遠くはありません。車で小野盛さんのお住まいに向かう時間。それはそれは、本当にワクワクする時間でした・・・。
意外と知られていない「残留日本兵」という存在
インドネシアにおける「残留日本兵」問題については、既にたくさんの書籍がありますが、その代表的な書籍「残留日本兵の真実―インドネシア独立戦争を戦った男たちの記録」からご紹介しましょう。
敗戦時、約1000人弱の日本兵がインドネシアに残留し、対オランダ独立戦争に参加したとされています。そのうち、約500人が戦死または行方不明に。
残った約500人のうち、独立戦争後に日本へ帰国したのは100人から200人で、残り300名がインドネシアに残ったとのこと。その生き残りの最後の1人が小野盛さんです。
残留日本兵による戦争秘話は、想像を絶する世界!
すでに94歳という高齢で、しかもすでに両目は失われていますが、それでもしっかりとした口調で、ゆっくりと語られる小野盛さん。とても94歳には見えません・・・。
・太平洋戦争の話
・インドネシア独立戦争の話、
・戦後ジャカルタで強盗にナイフで刺されて応戦した時の話
オランダ軍からの砲弾で左腕を失われ、その後も、あらゆる危険に遭遇し、それでも懸命に生き抜いた小野盛さん。
「わたしはね。この左手はね、実は2回切断しとるんですよ」
今でも元気な小野盛さんは、本当にさらっと語られるのですが、その語られる内容たるや、想像を絶する世界です。
帰国命令に背いてインドネシアに残留。戦後もまた壮絶な戦いが
オランダ兵の捜索が入った時、「もし見つかったら即座に自殺する!」と決め、ピストルを口の中に加えたまま、必死で隠れた時の話。
戦後、ジャカルタを移動中に強盗から襲われて、ナイフで腕や腹部を刺されながらも、強健に応戦し、血を流しながらも、手段を駆使して病院にかけこんだ話。
その他、もっともっといろいろな話を聞かせてくれました。
【写真:小野盛さんの足跡を丁寧に追うことから残留日本兵を問題を考察した書籍「残留日本兵の真実」】
わずかな短い時間なのに、それこそ壮大なドラマを見ているような感覚に襲われました。死と隣り合わせの覚悟をもった人物の強さ・・・。すさまじい気迫がありました。小野盛さんを前にすれば、小さな悩みは全てが吹き飛ぶに違いありません。
インドネシアで家族と幸せに暮らす小野盛の余生
インドネシアを愛し、日本を愛し、家族を愛する小野盛さん。お話し中も、部屋には、息子さん、娘さん、お孫さん、そして小さなひ孫さんたちが、出入りをされていました。
「いま、ご家族は何人ですか?」とうかがうと、
「わたしはね、子供が●人、孫が●人ね。そして、ブユッも、もう●人もいるんです」と、嬉しそうに語る小野盛さん。
(インドネシア語で「ひ孫」の意味)
ゆっくりとした時間の中で、本当に素敵なご家族に囲まれた過ごされているご様子が、とても印象的でした。必ずや、またお会いして、もっともっとたくさんのお話をうかがいたいものです。
ちなみに余談ですが・・・、
私の曽祖父が昔インドネシアで創業した会社の名前をお伝えしたら、
「ほぉ、そうですか。知ってますよ。それは、インドネシアでは、ノーモル・サトゥーの会社ですなぁ。有名ですな」と。
(インドネシア語で「1番」の意味)
知っていてくださって嬉しい限り。
私の曽祖父もインドネシア独立戦争に協力をしていたと聞いています。次回、小野盛さんにお会いする時は、そんな話もしてみたいと思います。
小野盛さん、ありがとうございました!
【参考】小野盛を取り上げた「世界の村で発見!こんなところに日本人」
日本のテレビ番組「世界の村で発見!こんなところに日本人」で、2014年1月に小野盛さんが取り上げられました。youtube映像は、こちらです。