「南方徴用作家」と呼ばれる存在をご存知です第二次大戦の時期、軍の命令によって東南アジア各地におもむいて、現地の様子を描いてまわった日本人文学作家たちのことです。今回は、南方徴用作家の阿部知二についてのご紹介です。
目次
東ジャワの避暑地、マラン・バトゥ・セレクタのエリアにも南方徴用作家が!!
軍の命令によって東南アジア各地を訪れ、現地の様子を描いてまわった日本人文学作家たちがいた・・・。そんな存在がいたのか! とびっくりするような内容ですが、そもそも私がこれを知ったきっかけは、先日、東ジャワの高原避暑地セレクタで、現地の仲間たちとトレイルラン&ウォーキングに参加した時のことです。
セレクタは、もともとオランダ占領期に開拓された避暑地。とても涼しくて、風光明媚な環境にあります。今でもオランダ人がつくったホテルやプール、公園などが残っていて、当時は「ジャワのスイス」とまで呼ばれたとか。
そのセレクタの山道を歩いたり走っている時、ふと思ったのです。オランダが撤退し、日本の占領期に入った時、このセレクタという場所は、日本人にとっても憩いの場であったのだろうか? と。
【写真:「南方徴用作家」阿部知二が宿泊したホテルセレクタ】
東ジャワ州のバトゥにある避暑地、セレクタの場所は?
セレクタは、東ジャワ州のバトゥというエリアの近くにあります。私の住む高原都市「マラン」からは、20キロ程度。
【地図:セレクタの位置。ちなみに一番右にある島はバリ島】
バトゥは、インドネシア残留日本兵最後の生き残り、小野 盛さんが晩年まで過ごした場所。
【写真:94歳とは思えない程、たくさんの話を聞かせてくれた小野さんと(2014年2月撮影)】
であれば、きっと当時、バトゥやセレクタを訪れた日本人もいたのではないかなと。そう思うと、いてもたってもいられず、家に帰ってから、すぐに検索をしてみました。
(残念ながら小野さんはすでに亡くなられてしまったので、直接お尋ねすることができません・・・)
戦前に、バトゥやセレクタを訪れた日本人作家がいた!
すると・・・、やはり「ある」じゃないですか!
『週刊少国民』(朝日新聞社) という雑誌の昭和18年1月31日号。現地を訪れた阿部知二さんという作家が、ズバリ! セレクタを舞台にした話を書いていることがわかりました。戦争中に軍の命令で、東ジャワのマラン・バトゥ・セレクタに滞在して執筆していたようなのです。
リンゴ農園をテーマにしたもので、題名は「ジャワの林檎」。
バトゥというエリアは、今でもリンゴの生産が有名です。私はこのエリアの高原で定期的に開催される、トレイルラン&ウォーキングの会に頻繁に参加していますが、ここではたくさんのリンゴ農園を見ることができます。
まさにそのリンゴをテーマにした作品が発表されている・・。
【写真:一面がリンゴだらけ】
しかも戦争期に、このセレクタを訪れて、その感想を記事にした作家がいたということ。それを知って、「遠い昔の歴史」が、とても身近なものに感じられました。いったい阿部知二さんは、バトゥ・セレクタに来て、何を思ったのだろう?と。
阿部知二の滞在記「ジャワの林檎」はセレクタで書かれた
「ジャワの林檎」は、このようにして始まります。
ジャワの林檎、といふ話からはじめませう。
だが諸君は、「あんな熱い土地に林檎なんかできるだらうか。」とふしぎに思ふにちがひありません。 もつともなことです。林檎は、日本でも長野縣とか東北地方とか北海道とか朝鮮とか、みな寒いところで栽培されてゐるものです。この私も、ジャワで林檎畑にお目にかからうなどとは夢にもおもはなかつたことでした。だから、東部の高地でそれを見たときにはほんとうにおどろいてしまひました。 それはセレクタといふところでした。海抜千メートルほどの山腹の避暑地で、年中氣温は二十度のところを上下してをり、數え切れぬほどいろいろの花がいつも咲きみだれて、じつに氣持のいいところでした。 |
おー、まさか昭和18年の日本の雑誌で、東ジャワのセレクタのことが取り上げられているとは!!
本当に驚きましたよ・・・。
【写真:オランダ時代の姿をとどめるセレクタのプール(2013年11月撮影)】
【写真:美しいバトゥの町並み(2014年2月撮影)】
【写真:バトゥのリンゴ。3kgで1万ルピア(約90円)で販売されていました(2014年2月撮影)】
阿部知二の小説「死の花」の舞台はセレクタ!!
しかも、さらにいろいろ調べてみたら、この阿部知二さん。セレクタを舞台にした小説まで書いていることがわかりました。それが1946年(昭和21年)7月に発表された「死の花」という作品。
日本では既に入手困難。インドネシアでは、2010年にインドネシア大学日本研究出版局から、『Kembang KAMBOJA』(ISBN 979-1099-5-5)という題名でインドネシア語バージョンが発売されています。
この他、今でも読めるものとしては、「火の島」という単行本があることを知りました。
なぜ阿部知二はセレクタを訪れたのか。南方徴用作家とは
ただ、次に私が思ったのは、そもそも阿部知二さんは、なぜセレクタに来たのだろう? ということ。そこで調べていたら、「南方徴用作家」という存在を知るに至ったのです。
立命館大学の国際言語文化研究所が発行する紀要「言語文化研究」、1992年1月に発行された第3巻第3号「戦争と文化」の中に、「阿部知二とインドネシア体験(一)その事実を巡って」という論文を見つけました。
木村一信さんによる論文ですが、そこには阿部知二さんの「南方徴用作家」としての活動が次のように書かれていました。
日本の新聞や雑誌などの求めに応じてジャワでの宣伝、文化活動の模様を日本の内地向けに執筆したり、また、ジャワ現地軍発行の「うなばら」(前身は「赤道報」)紙に寄稿したりする |
「南方徴用作家」というものがいたなんて、私は今まで全く知りませんでした。
アジア各地に派遣され、感じたこと、考えたことを日本人向けに書く。
現地の風を肌で感じ取り、何を思い、何を考えたのか。
言論統制のある中で、何をどう書いたのか。
私の住むマランのそばにあるバトゥ、そしてセレクタ。
そこにまで日本の文学者がやってきて、感じたことを発信していた・・・。
私は「南方徴用作家」のことが、ますます気になり始めました。
マラン、バトゥ、セレクタの環境に強く惹かれた阿部知二
同論文によると、研究者である水上勲さんは、「帝塚山大学紀要」第23号(昭和61年12月)で、「阿部知二とジャワ徴用体験」という論文を書いています。
阿部知二さんのジャワ本「死の花」を分析した結果として、次のような指摘をしているそうです。
作者自身、明らかにこのような熱帯自然の陶酔的な快楽に強く惹きつけられていることがわかる。 |
前述の通り、阿部知二さんがセレクタなどを舞台に書いた「死の花」は、日本では入手が困難。私もまだ読めずにいます。
でも、阿部知二さんがマラン、バトゥ、セレクタを訪れて、その自然環境に陶酔的な快楽を見出し、強く惹きつけられていたと知ったこと。
私自身、このエリアを定期的に歩いたり走ったりする中で、同じように自然環境を味わっています。70年の時を経て、どこか意気通じるものがあるような気がして不思議な気持ちになりました。
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阿部知二さんがジャワ、そしてインドネシアを訪問する中、何を思ったか。さらには・・・、「南方徴用作家」の皆さんがアジアの各地を訪れて、それぞれの場所で何を感じ、何を考え、どんなことを発信してきたのか。興味がわくようになりました。
教科書で「歴史を知る」のも良いですが、こういう「体験から歴史を知りたくなる」というのは、なんというか実に味わい深いです。
アジアを旅した経験のある人は多いはず。自分が旅した場所について、70年前の文学者たちはどう感じ、どんな作品を書いてきたのか。どう表現してきたのか。興味が湧いてきませんか?
ぜひ調べてみると面白いと思います。
【参考】阿部知二の滞在記「ジャワの林檎」の全文
なお、「ジャワの林檎」は、ここで読むことができます。
Googleが書籍をまるごとPDF化しているのです。
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【 時の運と人の縁を極める日々の記録 】 渡邉 裕晃
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