先日ラジオで、ある対談を聞いていたら、気になるフレーズにめぐりあいました。
「人は便利さを求めるけど、それによって失っているものもあるんです」
「でも、失っていることが自覚されることは、ほとんどないのです」と。
例えば、フローリングの床であれば、ほうきで掃くだけで十分なのに、電気掃除機が使われている。これによって、大量の電力が消費されるだけでなく、製造にも大量の資源を要し、毎年たくさんの掃除機が廃棄されていく。
便利さを求める反面で、環境に与える負荷は大きく、つまりは、失われているものも大きいのだ、と。
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以前のブログで、与えられている、あたりまえのような日常について、そこにある「ありがたさ」をきちんと認識してみよう、という話をしました。
当たり前に思える日常は、実は当たり前ではないということ。
これを、「誰かの尽力(犠牲)によるもの」だと考えれば、根は同じだということになります。
与えられていることによって、失われているものがあるということ。
それにはなかなか気づかないということ。
失って初めてわかることがあるということ。
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そう考えると、努力もせずに与えられるというのは、実はとても怖いことなのだということがわかります。
「パソコンで印刷」が当たり前になることで、自ら文字を書くということがなくなる。漢字が書けなくなっていく。相手のことを考えて、親身になって、時間をかけて、必死になって相手に伝えようという習慣、思考スタイルが失われていく。
「電車は定時に動くもの」が当たり前になることで、自ら歩いたり、走ったりする力が失われていく。
自分の力で歩くことで得られる快感を経験しなくなる。何十キロもの距離を数分で移動できることの奇跡を感じることもなく、定時に遅れるだけでも、駅員に怒号を浴びせるようになる。
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例えば、そんなことです。
冷暖房を酷使することで、その場の快適を与えられる反面、地球環境には大きな負荷を与えていく・・・。
それとともに、次第に暑さ寒さに耐えがたい肉体になり、暑さや寒さを楽しむ心まで失われていく。
何かにつけてタクシーを使うことによって、その場の快適を与えられる反面・・・。
環境負荷を増すだけでなく、距離を歩けない体になり、体力も弱まっていく。
(頭の回転も悪くなる)
これだけの機械文明になると、当たり前のように思える環境も、実は当たり前ではないということが、本当にたくさんあることを思い知るはずです。
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与えられ慣れてくると、求めなくなります。
求めない状態の人に「求めろ」と言っても、動くことは無いでしょう。
これは人間としてだけでなく、動物としても正常な姿ではありません。
「自ら体を使って動く」ということが、いかに尊いことかということです。
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電車で十キロを移動しても何の感動もありませんが・・・(電車マニアだったり、景観が特別だったりという例外を除いて)。
十キロを歩いたり走ったりして移動することには、それなりの感動がわきおこります。
(不便きわまりないはずなのに)
海外の友人とコミュニケーションをとるにしても・・・、メールや電話を使えば、瞬時に行うことが可能、しかも便利。
でも、手書きで手紙を書く、手書きの手紙を読む、あるいは、遠路はるばる直接会って、体全体でコミュニケーションをとる・・・。そういった手段を超える感動を味わうことは、ほとんど無いはずです。
(不便きわまりないはずなのに)
・与えられることによって失っているもの。
・便利さに甘んじて、目に見えないところで進行している喪失の事実。
改めて見つめたいテーマです。
■参考:このテーマに関連するブログ記事です。こちらも、どうぞ。
このコラムは、2007年11月28日に配信したメールマガジンを転載したものです。
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2007年12月23日 渡邉 裕晃
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